
名前はもうお馴染でしょうか。 ちなみに屋蔵大主は元々伊平屋の人ではなく、
南山の流れだという伝承があります。
屋蔵大主の父ちゃんが高嶺城(=南山グスク)関係の按司((上)与座按司)で、
兄(叔父)に殺されたので、屋蔵大主は伊平屋に逃れてきたとかなんとか…

八つの藏を持つ篤農家として繁栄したと言われています。 でも、結構若死にしてるっぽい?
(長男の鮫川大主が16歳の時に死亡してるらしいデス) 参/『月代の神々−尚思紹王統・門中の世系図−』(當間荘平著/1985) 通称ヤグラ海岸と言われている
海岸沿いにありました。
今は整備されてすぐに行くことができますが
前までは海岸沿いの岩場を行く感じで
大変だったようです








この石碑は勝手に建てられたものだ!けしからん!
と糾弾する写真付きの掲示物がありました。 第一尚氏王統の陵墓に石碑を建てた
「月代宮奉参会」(第一尚氏の子孫たちの組織)ですが、
これら一連の石碑建立計画の細かい経緯をまとめたものが
『月代の神々−尚思紹王統・門中の世系図−』(當間荘平著/1985)に
写真入りで載っていました。屋蔵墓に関しては伊平屋村とのやりとりも。
(石碑建立は認められたが墓の調査改修は断られたとか) ちなみにこの本の出版は石碑建立をしてじきの昭和60年(1985年)。もう30年近くも前です。 博物館が「勝手に建てられた」と書いていた年代(確か90年代後半)とは
大きな開きがあり、矛盾しています…。

(他の陵墓碑もそうですが) その時に立てた石碑と、今ある石碑が違うと言うのであれば
アレですけど…。
本に載ってたモノを見る限りは
同じように思えるんだけどな? なんかいざこざでもあったんですかね… (´_`;) 結構、博物館の展示パネルの文章、
バサバサしてる感じだったしな…(^_^;
サバサバじゃなくてバサバサ。証拠のない伝承はバッサリ一刀両断!的な(^^;)
いや、まぁそれでもいいんだけど、否定的なトコには赤線引いてるとかでちょっとキツイ印象でした…;

伊平屋ちむドンキッズのツアーに参加していただくか、
『琉球戦国列伝』のコラムで☆

ちなみに伊平屋に行ったのは最近じゃなくてちょっと前。
舞台とは関係なし訪問です(^^;
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