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おきなわ石獅子マンガ(6)

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おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん6本目。

前回のつづきです。

 

 

 

 

円柱の証拠写真がこちら。

 

 

後ろ(お尻)側から見た図。


考古学からみた南山+α

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三山時代の南山は
北山、中山と比べてなんだか複雑。

謎も多く、色んな解釈があって把握しにくい…
というのが根強い印象。

一応、

・南山は王を頂点とするピラミッド型の社会とは少し違う
・南山按司連合の代表が王となる、というイメージ
・南山は更に2つの勢力に分かれていた(島添大里・島尻大里)
・尚巴志はそのうちの1つ(島添大里)を先に滅ぼして拠点とし、中山へとコマを進めた

という具合に、ある程度は把握できたものの(→)、

それでもまだ人物関係などではもやもやした部分もあり、
分かっているような、わかっていないような…。

 

そんな中
『考古学から見た琉球史(上)』(安里進著/ひるぎ社/1990)
を読了。

その中で、南山の歴史に触れた箇所があり、
私的にとてもスッキリした部分が多かったので
復習も兼ねて図解してみました!

 

+

 

まず、南山の区分について。

 

 

ザックリ言うと、
考古学的に、出土した土器などの特徴を元に地域分けするとこうなる、
という図です。
(▲はグスク)


・豊見城・糸満あたりのD類主体圏(緑エリア)
・玉城・具志頭あたりのA・C類主体圏(赤エリア)
・そして大里・知念あたりのB類主体圏(黄色エリア)

 

ここでのポイントは、黄色エリア。

このB類主体圏は南風原まで、
つまり中山のエリアまでつながっているのです。

 

ということは、考古学的に見ると、

島添大里や佐敷は南山ではなく、中山だった!

 

はっきり「中山」とは言えずとも、
南山と中山の境界線で、所属があいまいな(ゆるい)エリア、
というのはあるかもしれない。

そう考えたら

・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山王とはならない(島添大里グスクは南山王の居城ではない)
・尚巴志が島添大里按司を倒しても南山は特に動いていない
・尚巴志が島添大里按司を倒した後、南山(島尻大里)ではなく中山にコマを進めた
・尚巴志が中山王・武寧を倒した時、そこを南山の領土拡大とするのではなく、そのまま「中山」とし、中山王を踏襲した

というのは確かに合点が行きます。

 

でも、一方で
グスクの規模的に大きな力を持っていたであろう島添大里グスク・按司が
全く存在感がなくなっているのがひっかかりポイント…ではあります。

また、この解釈(島添大里や佐敷は中山)は現在は一般的ではありません。

 

これに関してはまた後で振り返ります。

 

+

 

次に、緑エリアと赤エリアの権力者について。


 

文献から見える、南山最初の権力者の名前が2つ。

・1つめが、南山王・承察度(しょうさっと)
・2つめが、南山王叔・汪英紫(おうえいし)。

 

支配エリアに関しては、

承察度はウフサト(大里)と読めることから緑エリア、
汪英紫はエージ(八重瀬)と読めることから赤エリア、

ではないかというのが本書の主張。

 

承察度は島添大里グスク関係者だと思っていたので
これまた真逆の展開…。

 

島添大里グスクが南山ではないという前提になると、
承察度は島尻大里から、糸満ということになる。

(でも島尻と島添の語意からすると、島尻<島添という気もするけど…)

 

とりあえず、
南山にはこの2大勢力があった、と。

 

ふむふむ。

 

+

 

では次に南山王の系譜図。 

 

 

本書では、
考古学的に緑エリアと赤エリアの違いは部族の違いであり、
王叔などのように血のつながりがあるような記述は擬制的関係なのだろう、
としていますが、
この図では敢えて文献記述に基づいた線で結んでみました。

中心になるのは文献に最初に出てくる南山王・承察度。

彼を中心に、王叔(汪英紫)、王子、と見て行ってください。

 

・南山王・承察度の朝貢と同時に、王叔・汪英紫が朝貢している。

・この二重外交の例は他でも見られ、王位継承者(後継者)の証、特権である

・三山時代、王位継承者は一定期間、二重外交をした後で王位が継承されるのが原則であった

・よって、承察度の後継者は、汪英紫であるはずだった。が、まだ正式な「世子」までは行ってなかった

・そのうち、承察度は汪英紫ではなく、我が子の承察度(Jr)を王位継承者にしたくなった

・そこで汪英紫は承察度(Jr)と王位継承をめぐって対立し、結果、承察度(Jr)は朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。

・(この時、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)

・王子亡命後もおそらくいさかいが絶えず、南山王・承察度(温沙道)自身も追われて朝鮮へ亡命する(『李朝実録』)。

・(この時も、中山王察度が、汪英紫に味方して協力している)

・ライバルを追放し、晴れて王位につけることになった汪英紫だが、病気かなんかで死去する。

・よって、汪英紫の子・汪応祖が南山王を引き継ぐことになった


という流れ。
(その後の達勃期、他魯毎に関しては割愛)

(王と世子による二重外交のシステムに関しても興味深いので
この点に関しては是非本で読んでほしいです)

承察度の朝鮮亡命が色々謎ポイントで、
王子は存在せず王そのもの(同一人物)なのだとか、
温沙道と記述されているのは承察度ではなく上里按司だとか、
色々解釈があって取っ散らかっているのですが、

私は今回のこの展開が1番腑に落ちてスッキリしました。

 

 

さて、
最初の南山勢力図で、
承察度の勢力は豊見城・糸満エリアで
汪英紫の勢力は玉城・具志頭エリア
とありました。

でも、
汪英紫の子の汪応祖は豊見城グスクと関係があるし
やっぱり規模的にも、
島添大里グスクが南山権力闘争とは全く関係ない只のグスクとは思い難い…。

 

とすると、

 

承察度を追い払いつつあった汪英紫が、
次第に勢力を拡大して行って
自分の子ら(汪応祖やその兄弟)を豊見城グスクや島添大里グスクに配置していった…

というのは考えられるな。

参/『新 琉球王統史2』(与並岳生著/新星出版)

 

島添大里や佐敷は中山(もしくはあいまい)領域だったというのも、
昔はそうだったとしても、
次第に汪英紫が影響を広げていって
南山色が濃くなっていった…とか、ね。

 

でも、そう(島添大里按司=汪英紫の子)だとしたら、
尚巴志が島添大里按司を滅ぼした時、
一族で繋がっているはずの南山王から
何もアクションがなかった…というのは妙な話ですね。

とするとやはり、
島添大里グスク(按司)と南山は関係がない、
というが自然なのか!?

 (RBCドラマ尚巴志では、汪英紫一族同士で仲たがいしていたという設定でしたね)

 

 

う~む、堂々巡り。

 

 

+

 

ところで、この本では出てこなかったけど、
三五郎尾も図に入れておきました。

承察度とは叔父と姪の関係。

「姪」と書かれてはいるとは言え、ここでは「甥」と言う意味
というのが一般的でしたが、

言葉通り「姪」、つまり、女性だった!

というのは
『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』(村井章介著/角川選書)』より。

と言うわけで髭無しの中性的にしてみた。

女性外交官・三五郎尾もそのうち描いてみたいと思います。

組踊300年もうひとつの“おもてなし”

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今日、たまたまつけてた夕方のニュース番組、RBC ザ・ニュース。

その中の特集が組踊300年に関連したものでした。

初演の時の舞台(設置)の様子や、
冊封使たちへのもう一つの「おもてなし」、
テレビ初撮影の『花火方日記』など、
見てて、へぇ~!なことが多くて面白かったです。

動画を探したらあったので、シェアします

8分弱くらいの特集なので是非見てみて下さい。

 

RBC NEWS「沖縄大好き再発見 組踊300年もうひとつの“おもてなし”」2019/05/15

 

この花火、復元されたら是非みたいなぁ

願わくば、設置も同じく御庭の南殿前でやってほしいけど、
火器だからダメかな(-_-;)

義珍の拳

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先日、図書館の文庫コーナーで目に留まった一冊、
『義珍の拳』。

作者は今野敏。

以前読んだ『武士猿』と同じ作者です。

 

表紙からわかるように、空手を題材にした小説で、
主人公は船越(冨名腰)義珍。

船越義珍は、
就職試験(一般教養(沖縄))の受験勉強で、
"空手を本土に広めた人"
として琉球史にハマる前から名前は知っていました。

でもそれ以上の知識はありませんでした。

 

そんなワタシにとって、この小説は、
とても勉強になる1冊でした。

 

王国時代、秘儀として秘密裏に伝承されてきた唐手(とぅーでぃー)を
沖縄で、そして本土で、公に、一般に広めていくことに尽力した義珍。

本土で、沖縄のカラテが高く評価されることの喜び。

と同時に生じる「カラテの本質」が薄れていく危機感や葛藤、
「君子の武道」であるはずのカラテが
実践や勝負に価値を置く「スポーツ」として広がっていく失望感。

廃藩置県、太平洋戦争、戦後と
時代の移り変わりとと共に、
カラテに生涯をささげた義珍の一生が描かれています。

空手の歴史、
名だたる先人たち、
同時代に活躍した空手家たち、
空手の精神や本質にも触れることができます。

 

 

「空手に先手なし」

 

沖縄空手会館の展示室入口のパネル、
中央に大きく書かれているのが
義珍のこの言葉です。

この本を読んだ今、
改めてここを訪れたくなりました。

(空手会館初訪問の時の過去記事→ 

 

 

実はYouTubeに義珍の動画がちょいちょいあるんですよね…。

ちょっと貼っておきます。

Gichin Funakoshi - 1924 Vintage Footage

おきなわ石獅子マンガ(7)

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おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん7本目。

前回のつづきです。

おきなわ石獅子マンガ(8)

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おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん8本目。

 

ツイッターで、
梅雨入り直前にUPしたネタです。

 

うりずんとは、
旧暦の2~3月から梅雨入りまでをあらわす季節の時候。

今年は旧暦4月に入ってしばらくしても
なかなか梅雨入り発表がなく、
やきもき?しましたね。

 

今日は梅雨入り発表(5/16・旧4/12)があってから
最初の日曜日。

お洗濯日和でした

ワット・ポーの琉球人像

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タイ・バンコクで最も古いとされている寺院、
ワット・ポー。

ここに、琉球人の像があります。

男性像と女性像。

確かに琉球は大交易時代にシャム(タイ)と
頻繁にやり取りをしており、
シャムで琉球人が見られることも少なくなったでしょう。

 

ということは、
この像は大交易時代の琉球人の姿!?

 

 

先に結論を言うと、


否。

 

ワット・ポーはアユタヤ王朝末期の
ウラペートラチャ王代(1688~1703)の創建で、
ラーマ三世(1824~1851在位)が17年かけて改修した寺院。

ラーマ三世は、シャム(タイ)と交流のあった
諸外国人の石造を刻ませ、
それぞれに簡単な銘文をつけて
建立させたといいます。

そんなワット・ポーにあるであろう琉球人像を、
最初に調べ、著書(昭和16年)で発表したのが
東恩納寛淳。

彼によると、
この像は、近世、19世紀くらいに、
中国装束をさせられて江戸上りした
琉球人行列図を写したものではないか?

男性像の頭部は
ハチマチ+髷+簪だ、

とのこと。

 

でも、今、実際にその像の写真をみると
男性の頭部はどう見ても帽子なんだけど、

制作時に参考にした絵図の
ハチマチ+簪+髷が、
帽子的なものに解釈されて
作られてしまったりしたのでしょうか?

 

 

琉球人像の写真は
こちらのブログ記事がおすすめです。

 

こちらの記事の写真を参考にして、
琉球人像をポップにアレンジして描いてみました。

 

いつかタイで、実物も見てみたいですね。

 

参/『走れ思徳』(与並岳生著)

喜界島の勝連屋敷

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以前、喜界島のリーダー、
勘樽金を描いた記事でも書きましたが
昔、喜界島は勝連とのつながりが濃かったことが伺えます。

 

そんな史跡がこちら。

 

その名も、勝連屋敷(跡)。

 

 

勘樽金の父=勝連親方(=阿麻和利??)の子孫が
荒木からここ白水に移って来た、との口伝もあるようです。

とすると、その勝連親方子孫の屋敷跡、
ということになります。

 

 

また、

"城を作るために勝連親方は、
白水村の勝連屋敷に若い人たちを集め、
力石を持ち上げさせた。
それで力の強い者だけを人夫に選んで送った。"

という伝承も。

その力石というのが、
この石垣の上に乗っている2つの石なのだとか。

 

この伝承で言う城づくりというのが、
伊平屋の田名グスクなのか、
それとも勝連グスクの改築補強工事なのか、

それとも阿麻和利とは関係のない
全く別のグスクなのか…。

 

勝連親方というのが、阿麻和利より後の時代の人物だとすると、
尚真代の首里城増築での動員で…って想像もできますね。

 

 

はるか昔のことはさておき、
この勝連屋敷に住んでいてた「勝家」の人たちは
昭和初期に大阪に移住してしまったとのこと。

その際、名字が「勝」一字では変だから
「勝崎」に改めたのだとか。

一族は他にも、
勝田、勝原、勝山、勝部、勝谷などの姓があるらしいですよ。

 

「勝〇」という二字姓の人は
もしかしたら勝連親方の子孫かも…!?

 

 

立派な門構え。

敷地もかなり広い様子でした。

 

 

これはヒンプンかな?

真ん中の文様が城門のように見えます。

 

 

ところで、
尚徳の喜界島遠征の時、
闇夜に紛れて島の背後に回り込んで上陸したという地
が、
荒木ではなく早町港あたりだった、との説もあります。

早町港はこの勝連屋敷のすぐそこなので、
(荒木出身で白水に引っ越していた)勘樽金が
ここで迎え撃ったとも想像することもできますね。

 

参/『真説 阿麻和利考』(高宮城宏著)


リテイク・護佐丸(若)

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久々の更新となりました。

先週は、530。

そう、護佐丸の日でしたね。

もちろん忘れていたわけでなく、
ツイッターの方では話題をふったり
関連過去記事を紹介したりしておりました。

530に合わせてイラストも描き始めていたのですが、
その週は偏頭痛やら、予想外の仕事宿題やらが重なり
完成させることができないまま、
結局今日になってしました

 

ということで、
琉球戦国列伝リテイク版の護佐丸(若)です!

 

そして、実は今年は
中城村が「ごさまるの日」を制定して10周年ということで、
中城村のゆるきキャラ「ごさまる君」とも
共演させてみました♪

江戸上り絵図のイラスト

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江戸上り(江戸立ち)の絵図を元に
イラスト化した2枚。

 

楽童子とお付きの者。

 

そして、

 

 

行列の路地楽隊。

よく見ると表情も結構楽しそうである。

 

絵図を元にしたこういうイラストを、
もっと色々描いていきたいなと思っている所。

スディバナビラ、野嵩石畳道

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宜野湾市野嵩にある、野嵩石畳道。

短いけれど、宜野湾市指定史跡でもある琉球古道。

中頭方東海道ともつながる道の一部。


詳しくはこちら↓


 

案内板には

護佐丸が阿麻和利に攻められ、
護佐丸の妻子がこの道を通って逃げる時に
追手の弓矢が女の着物の袖を引き裂いたことから
「スディバナビラ(袖離れ坂)」とも呼ばれる

とありますが。


鬼大城と百十踏揚が阿麻和利の追手から逃げる時に、
百十踏揚(or鬼大城?)の袖が弓矢で引き裂かれた…
という話もあります。

(ただ、百十踏揚の袖が切れたのは
この坂じゃなくて、すぐそばの普天間川での出来事とも。
この小川も袖切川と呼ばれているそう)


主人公を変えてあらすじは同じ話、
というようなものは良くありますね。

お茶二杯とかもそうだし。


坂や小川だけでなく、
このエリア一帯がスディバナ(袖離)と呼ばれていた、
という見方もあるみたいです。


参/『真説 阿麻和利考』『中城村史』



 

この石畳道自体は
護佐丸や阿麻和利の時代のものではないようですが、
それでも歴史を感じる琉球古道です。

おきなわ石獅子マンガ(9)

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おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん9本目。

 

やっちーとは、「お兄さん」のこと。

 

リアルやっちーのバックショットがこちら。

 


じーーーーーーーーーーーーー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【描いてみた】琉球史人物、を、34【キラ男子】

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【義本(ぎほん)】

舜天王統(1187~1259)3代目の王。

在位中、天災が起こって多くの餓死者が出た。

それは自分に徳が無いからだとし、
彼は英祖に王位を譲って退位した。

 

彼は自身の不徳を詫びるため、
玉城グスクに行き薪の上に座ると、
家臣に火をつけさせ焼身自殺を図った。

しかし、まさに火が彼を呑み込もうとした時、
にわかに大雨が降り、火は消えさった。

死ぬことままならなかった義本は
そのまま行方知らずとなった。

 

退位後の義本王の足取りは全くの不明であり、

彼の墓といわれているものも点在。
辺戸北中城1北中城2 等)
奄美群島にまで及ぶという。

 

そのため、
義本→英祖の政権交代は
禅譲という平和裏なものではなく
クーデターによるものであり、
義本王は追われる身になったのでは
という見方もある。

 

辺戸にある【義本王の墓】からは実際に
グスク時代の人骨や装飾品が出ている。

 

 

彼はなかなかの悲運な王だったのでは…
とイメージします。

 

(少なくとも辺戸の観光案内所にある
チャラ男っぽいイメージはない(笑)
でもあれはあれでキャッチ―(笑))

 

 

そんな義本王のキラキラ化。

1年以上前に描いて放置してたラフ画を発掘

キラキラ舜天とちょっとリンクさせてます。

 

ちなみに、彼が王位を譲った英祖(キラキラver)は
コチラから。

政権交代なので、
顔のタイプもガラリと変えています。

リテイク版・芥隠

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『琉球戦国列伝』リテイク版、

5人目めは、

芥隠(かいいん)

 

 

【人物データ】

京都・南禅寺の流れをくむ禅僧。

1450年代に来琉し、
第一尚氏~第二尚氏初期にかけて活躍した。

広厳寺、普門寺、天龍寺、龍福寺などの住職をつとめ、
第二尚氏の菩提寺である円覚寺の初代住職となる。
王の相談役、外交官として、国政にも影響を与えていたとされ、
死後、「国師」の称号が与えられた。

 

 

その姿は奇異で
虎のように鋭いまなざし、
牛のようにゆったりとした佇まい…

と表現される芥隠。

ただ、このフレーズは徳の高さを表す
決まり文句のようなもので
実際の見た目の事ではないらしいのですが、

(なので琉球戦国列伝では敢えて
相反するおっとりした顔つきを採用)

一度、このフレーズのイメージで描いてみたくて
今回のリテイク版になりました。

第二尚氏のクーデターにも関与した可能性もあるということで、
立派な聖職者(和尚さん)というより
影で王府をコントロールする策士…っぽい雰囲気に。

大柄でガタイもよい…という設定。
(若い頃は特にムキっと)

キラキラ版でも登場している彼ですが、
どれも雰囲気が全然違いますね(笑)

 

芥隠についてはコチラの過去記事も→  

現代版組踊座談会・未収録部分公開!

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『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』が世に出て
ちょうど1年になりました!

この1年、
色々なところで販売してくださったり
(書店のみに限らず現代版組踊各会場などなど)
購入してくださったり
感想をSNSで発信してくださったり
直接お声掛けいただいたりと
…本当にありがとうございます!

 

1年の節目に何かできないかな…

と考えまして……

 

現代版組踊座談会
「だから、〈現代版組踊〉はやめられない!」の
未収録部分を公開することにしました!

 

『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』で
現代版組踊を扱うことになった経緯については、

琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑、について3(現代版組踊)

もご覧下さい。

 

 

参加メンバー(※学年は2017年度のもの。現在全員が卒業しています)

●「鬼鷲」
・根間彩葉(高校3年 女性アンサンブル) 
・岩切里帆 (高校3年 女性アンサンブル)

●「肝高の阿麻和利」
・久米優希(高校2年 役者) 
・宮平華穫手(高校3年 バンド)

●「那覇青少年舞台プログラム」
・東 慎也(高校3年 役者) 
・中村妃織 (高校2年 バンド)

●「北山の風」
・上間遼(高校3年 役者) 
・比嘉涼(高校3年 役者)

●「TAO Factory」
・森屋菜津美(肝高の阿麻和利OG) 

・和々 

・澪之助   

 

 

――学校と琉球史についての話題

 

岩切:自分から(舞台を)観に来てーと言っても、現代版組踊と聞いて古典組踊のほうを想像しちゃうみたいで、
   「組踊かぁ、だったら来ない」みたいな感じになっちゃいますね。

和々:そうなんだ。まだあまり区別がついてないんですかね…。
   南部では(現代版組踊の)公演が少ないからっていうのもあるんですかね?
   尚巴志のことは皆知ってたりするんですか?学校で習ったりとか。

根間・岩切:習ったりして知ってはいます。

和々:阿麻和利とかは習うんですか?学校とかで。

久米:勝連城の隣にある与勝中学校だったんですけど、習うというよりかは軽く触れるぐらいで…。

森屋:近くにあるから皆で行こう!みたいなことは無かったの?

久米:無かったですね…。部活でグスクに走らされるぐらいで(笑)

―― 一同(笑)

和々:ああ、それはなんか聞いたことあるな(笑)
   でもそっかぁ、意外と近いとやらなかったりするんですかねぇ?
   那覇はどうですか?

東 :自分の中学校の校句みたいなのに《名護親方 六諭衍義》というのがありました。

中村:生まれたところがすぐ近くにあって…

東 :そう。孔子廟がすぐそばなんですよ。

中村:それで総合的な学習の時間で、名護親方を《程順則》の名前のほうで3年間みっちり習いました。

和々:3年間みっちり!?すごいですね!

中村:日曜参観日に必ずこの名護親方(程順則)の授業が当てられてて、六論衍義を勉強しました。

和々:上山中学校?東君と中村さんの二人は同じ学校だったんですか?

東・中村:はいそうです。

中村:だから、生徒は名護親方じゃなくて《程順則》じゃないと通じないんですよ。
   名護親方って通じるのは舞台をやってる人たちぐらいです。

和々:それはすごいおもしろいですね!

澪 :すごいですね…私の地元はあまりそういうのはやってなかったなぁ…。

東 :結構那覇が…というか上山中がって感じですね。

和々:なんかそういうことに熱心な先生がいたとか?

東 :なんか、上山中っていうもの自体が結構那覇(青少年舞台プログラム)と繋がるものが多くて、
   程順則もそうだし《レキオの夢》を運動会でやっていたり…
   そういったのに繋がりがある先生がいたっていうのも大きかったかもしれません。

中村:あとは伝統コキ(古旗?)とか、旗頭の演舞もやったりしていました。
   久米が地域なんで、中国系統の交流が深くて蛇踊りとかも運動会でやっていました。

和々:なるほど、じゃあ地域柄なんですね。久米村の。
   おもしろいですねー、やっぱり地域によって温度差があるんですね。では北山はどうでしょうか?

上間:自分は小中学校共に今帰仁で歩んでますけど、
   北山や今帰仁城のことについて総合学習で調べたりするってことは全くなかったですね。

和々:そうなんだぁ…。
   習ってたらまた深みとか(舞台に興味を持つなど)何か違ってたかもしれませんね。

澪 :そうですねぇ。遠足などでグスクに行ったりはしないんですか?

全員:(無さそうなリアクション)

 

 

昔(ワタシが中高校生だった頃)に比べれば
地域ごとに温度差はあれど、
学校で地域の歴史、偉人、史跡について学ぶ機会は
だいぶ増えているなと言う印象です。
(ただし全生徒ではなく選択制だったりする場合も)

 

 

 

ーーー男子と女子の割合についての話題

 

和々:男女の割合や配役の比率はどうですか?

東 :那覇は女子が多いので登場人物が男性でも、配役は必然的に女子率が多くなってしまいますね。
   でも蔡温はなるべく男性がやるようにはしています。
   立ち位置やキャラに合った声の低さなどを考えるとやっぱり女子よりは男子が良いよねという感じで。

岩切:鬼鷲も圧倒的に女子が多いですね。

根間:今回は行ってきた新人メンバーも女子がとっても多くて、7:3か8:2ぐらいで女子のほうが多いですね。

和々:肝高は全体数も多いですけどそんな中で男子は肩身の狭い思いとかしてないですか?

森屋:(男サンは)まず楽屋が与えられないもんね(笑)

久米:そうなんですよね~(笑)女サンの楽屋にイスが足りなかったら男サンの所から持って行くとか(笑)

森屋:きむたかホールの楽屋裏にホワイエみたいな場所があるんですけど、そこが男サンの楽屋です(笑)
   みんな通るからドアも閉められないし後ろはガラス張りだしで丸見えなんですよ(笑)

久米:そこでエイサーのズボンに着替えたり、通るみんなに「くさい!」って言われたり(笑)

―― 一同(笑)

久米:それを気にしてそこら辺に消臭剤を置くんですよ(笑)

和々:役者になると楽屋はあるんですか?

久米:役者になるとありますね。

森屋:その中でも肩身の狭い思いとかはあるの?

久米:阿麻和利はずっと前から衣装とかを置く定位置があって、そこにずっと阿麻和利セットを置いてます。
   でも最近は役者の人数が増えてきたので、楽屋もだんだん場所が無くなってきてるんですよ。
   通れなかったり荷物を置く場所で着付けしたりとか。
   だから先輩も「阿麻和利の居場所無いね…(笑)」って(笑)
   それで自分は男サンの所に荷物を置くっていう。

森屋:ついに阿麻和利様も追い出されちゃった(笑)

和々:ちょっと切ないですね(笑)
   多いところは多いなりの悩みがあるんですね。

 

 

 がんばれ!おきなわのおとこのこ!!(笑)


新体制スタート→肝高の阿麻和利

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今回のポスターは背景が黄色とか、紅型模様とか、これまでとガラっと違った印象ですね。
デザイナーさんが変わったのかな…?本土の人を意識しての、分かりやすい沖縄感=紅型なのでしょう。


肝高の阿麻和利

2019年6月15日(土)

きむたかホール

 

年度が替わり、新しいメンバーを迎え、
新・阿麻和利&新・百十踏揚コンビの新体制になっての初公演。

初日の昼公演を観劇しました。

 

今回は余裕こいてて前日まで予約を入れてなかったので
選択できる座席が限られており
前方での観劇となりました。

あまり前の席は取らないほうなので
顔なじみの常連さんやスタッフさんにも
「珍しいですね~」と言われてしまった(^^;)

 

で、今回の席だからこそ「おおぅ…」となった事。

女性アンサンブルさんたちの
合唱の迫力が倍増!

もちろん後方席でもそれは感じられることなのですが
距離が近い+四方から囲まれる+濃密度で
迫力が全然違う…!

声の一体感とか、パワーって、好き。
(現代版組踊の醍醐味の一つだと思ってます)

「浪漫」でそれを真っ先に感じて、
阿麻和利昇天でのクレッシェンドでもトリハダが…。

これがもっと大きいホールとかだったら
距離感とか響きとかが多少変わってくるから
また少し違うのかもしれないけど、
今回のきむたかホールの、あの席での、
新発見!な気分!?

ん?なんで今更??

と自分でも思ったけど、
ああ、以前はここにバンドピットがあったから、だ。

バンドのそばの席というのも
生音の振動や迫力がすごかったのですが
(足元からビリビリくる感じ)
それが女サンの合唱にシフトした、ということか。

なるほどなるほど。

 

バンドと言えば、
前もちらっと書いたけど、公演の最後の最後、
演出部門さんがバンドを紹介して幕が下りる、
みんな揃ってバイバイするの可愛いよね。

客席からいつもふふっと笑い声がもれます。

ここで初めて「中高校生」の素の感じられるからかも♪

ステキです。

 

 

新・阿麻和利はお披露目公演の時に見たので、
新・百十踏揚について。

今回初めて観る新・百十踏揚は
ちょっと前の百十踏揚と似てるという印象を持ちました。

クールというか…。

登場して女官たちと踊るシーンとかでは、
悲しさとか戸惑いとかやるせない思いとかは全然表に出してなくて、
表情がないというか、無と言うか、
それがかえって取っつきにくそうというか、高貴な感じと言うか、
サーダカーな感じ?というのが第一印象。

 

(ワタシ的に初代聞得大君・月清が割とそんなイメージなんだー。
俗的な、人間的な、個人の感情を表に出さないタイプ。
あっ、劇中では百十踏揚の紹介で聞得大君って言ってるけど、
歴史的には聞得大君は第二尚氏になってから、尚真王代に設けられた位です。
この部分については思う事あって以前少し書きました)


琉歌のシーンではこれまで通り
悲し気な感じではあったんだけど、

続けてやってきた賢雄を払うようなしぐさがあったり、
賢雄に促されておずおずと…というよりは
キッと1人で奥にはハケた(ように見えた)りして、
おおぅ、結構強気系?とも思ったりもしました。

(もちろん、それもまた良し♡)

でも最後の「肝高の詩」での手踊りでは思った通り、
ふわっと笑顔全開のやわらか姫。

うむ、やっぱりあの時のツンデレ系だ、

と思った次第。

 

 

阿麻和利昇天のシーンで
マブイを追って泣き叫ぶ百十踏揚を大主が止めるところ、
百十踏揚の両肩をつかんで言い聞かせるようにしていた様にぐっときました。

 

 

あと、今回金丸さんが非常にニュートラルになっておりました。

セリフややり取りはもちろんこれまで通りなんだけど
言いまわし、表情、黒幕感一切なし。

眉さ・アイメイクが下げ気味だったこともあり(意図的かと)
にじみ出す苦悩感が。

最近の(ワタシが見てる)金丸はこんな方向性が多いですね。 

 

 

 

 

今回は「関東壮行公演」。

 

8月に、茨木と、東京。

東京での公演はちょうど10年ぶりになります。

…10年前…行ったなぁ~ →   

でもこの頃はまだ公演ごとのレビューは書いてないんだ。
(この年の秋に書きはじめることになります)

 

今回は行けないけど、9月に凱旋講演があるみたいです!

9/21.22、響ホールにて。

特別ゲストや特別演出の可能性もあるみたい。

楽しみに待っていようと思います♪

 

 

 

 

<オマケ>

前記事で、『琉球歴女の琉球戦国キャラクター図鑑』の現代版組踊座談会、
未収録部分を一部公開しています。

阿麻和利メンバーの話もありますので、
良かったら一緒にご笑覧ください。

おきなわ石獅子マンガ(10)

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おきなわ石獅子マンガ、
ふぇ~ぬ新城くん10本目。

 

例年だと慰霊の日には梅雨明けして、
青空に蝉の声が鳴り響く
暑い暑い1日なのですが、

今年の慰霊の日は、
30年ぶりの雨模様。

 

4コマ目の雨バージョンは、
ツイッター(@wawa_ryuq)に載せています。

 

3コマ目の元となった写真はコチラ→ 

戦車と戦った村シーサー

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豊見城市にある村シーサー。

田頭のシーサー(A)です。

 

 

どん。

 

 

胴体のない、顔だけのシーサー。

 

ゆるキャラ風かわいいぐゎ~の村シーサーとは違って

こちらはワニのように歯をむき出しにした、

強そうな村シーサーです。

(でもやっぱり愛嬌はあるのよね♡)

 

 

なんでもかみ砕いてしまいそうな

大きな口にするどい歯…。

 

鉄の塊をも砕いてしまいそうな迫力。

 

実は…このシーサー、
去った沖縄戦で

戦車を撃退したという武勇伝の持ち主!

 

まさか、戦車に咬みついた!?

 


↑クリックで拡大

 

いえいえ、

伝わる話はこうです。

 

 

上陸したアメリカ軍が集落に向かって侵攻。

しかし戦車がこの田頭のシーサーに車体を乗り上げ立ち往生。

戦車は何度も踏み越えようとしたができず、

戦車は諦めて進路変更し、

人々は難を逃れた…。

 

 

体をはって戦車を止めたシーサー!

まさに村の守り神!!

なのですね。

 

 

いつか「おきなわ石獅子マンガ」でもキャラ化したい
田頭くんでした。

赤の鎧の聞得大君(再)

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尚真王の妹(姉?)で、
初代・聞得大君の月清(音智殿茂金おとちとのもいかね)。

 

琉球の古い神歌である「おもろ」に、
赤い鎧を着て刀を持った聞得大君を謳ったものがあり、
その姿に興味を持って月清で描いてみたのが
7年前

 

そのリテイク版です。
(描いたのは去年です)

 

神事と武装。

祭政一致だった当時の琉球の様子が垣間見える、
(戦も政治なのである…)
一致興味をそそるモチーフです。

護佐丸が切腹した夜に出現した雷岩??

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中城グスクに隣接する、
超有名な廃墟ホテル「中城高原ホテル」。

 


右奥の建物('15.8撮影)



中頭方東海道(ハンタ道)を歩いた時のもの('13.11撮影)

 

40年に渡って放置され続けてきた廃墟が解体・撤去へ、
というニュースが出たのは今年の3月

 

「ついに!」ということで
再び注目を浴び、
5月にはめざましテレビでも紹介されたのだとか。

夕方のローカルニュースでも特集が組まれ、
現在の様子に加え、当時を振りかえる映像や
創業者の娘さんらのインタビューなどが報道されてました。

確か6月中旬ごろ、私はたまたまOTVでその特集を見たのですが、
ホテル内に残されている、いわゆる"遺跡"である『雷岩』について、

 

護佐丸が切腹した夜に突然現れたという「雷岩」

 

と紹介。

 

 

…ん?

初耳なんですけど????

 

 

その後、沖縄タイムス(電子版限定なのかな?)でも写真特集が組まれ、
「雷岩」について、同じ内容のキャプションが掲載。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/432869?page=4
(※現在有料会員のみが閲覧可能となっています)

 

そんな伝承、
読んだことも聞いたこともないぞ?

 

中城の文化財に長く携わってきた人や
歴史に詳しい人複数人にも聞いてみましたが
やはり初耳とのこと。

 

 

あ や し い ……

 

 

ということでリサーチスタート。

 

 

そもそも『雷岩』とは何なのか。

 

中城グスクの正門から南西方向200mの位置にある
琉球石灰岩の大岩で、
この岩に雷がよく落ちたことから、地元では雷岩という名称で呼ばれている。

雷岩はハンタ道の傍らにあり、
平坦部集落を結ぶ道、
新垣グスクを経由して首里へと延びる台地部のハンタ道、
宜野湾間切番所への道
の3つの道が交わる交通の要所となっており、
雷岩は同地点のランドマークとなっていた。


参/『古道 ハンタ道~歴史の道環境整備事業報告書~』
(中城教育委員会/2014.3)

 

これが雷岩の説明であって、
中城村教育委員会が出している他の資料でも、
護佐丸歴史資料図書館の学芸員さんの文章でも、
雷岩にまつわる護佐丸云々という話は何も書かれていない。

 

伝説の話だから…と
民話集(『中城の民話』中城村教育委員会/平成11)
にもあたってみたけど、
それでもやっぱりそんな話は見当たらない。

 


『写真が語る護佐丸の居城~中城城跡その周辺~』(中城村教育委員会/平成16)より 
明治10年代撮影の雷岩(上)と、現在の雷岩(下)

 

聞くところによると、
この護佐丸云々という話の出どころは
どうやら中城高原ホテルの当時のパンフレットのようだ。

ホテル内に取り込んでいる「雷岩」の説明として
つけていたこのキャプションを
テレビや新聞がそのまま紹介した…という経緯っぽい。

 

 

……え、もしやこれって…

 

 

まあ、そうなのかどうか真相は謎ですが、
少なくとも、この伝承が
地元に長く伝わっている、
広く知られたもの、
ではないことは確かなようです。

 

やれやれ。

 

 

ちなみに、ワタシも最初に「雷岩」の存在を知った時
早合点してしまっていたんだけど、
先述した通り、雷岩はあくまでランドマークであって
御嶽ではありません。

立派な岩だからね、最初はそういう系なのかと思い込んでました(^^;)
(ただホテルの敷地内には別に添石の拝所などがあります)

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